現住職は朝倉孝英(第20代)

金宝寺と表記されることが多いが正確には金寶寺

 

 天正元年(1573年)7月18日、織田信長による浅井・朝倉攻めが行われた。多くの者が殺されてしまったが、祖先の玄宗は僧侶であったために逃れ、越中国石動村に隠れ住んだ。その後、赤曽部村に移り住んだが、天正4年に織田信長が本願寺を攻めるにあたっては、本願寺の救援に駆けつけた。顕如上人はその功を誉め、「金寶寺」の号を送った。その子である法正は越後に帰り、蒲原郡所島村(亀田町)に家を建てて住んだ。これが金寶寺の開基である。その子の法知が信濃川下流の東にある荒地を開き、慶長二年(1597年)に移り住んで開墾し、農夫を集めて所島新田とした。その後、「上所島新田」「下所島新田」に分かれて、現在の「上所」「下所島」となったのである。

 このように、織田信長と本願寺の抗争の後に越後に移り住んできた伝承は多数見られる。